
| タイトル | 日管上人頒徳碑 |
| 作者名 | 不明 |
| 設置場所 | 福岡市博多区 東公園 |
佐野日管上人のレリーフが設置されている。碑文は下記の通り。
『佐野前励師略事歴』の漢文を読み下しにし、ふりがなと句読点をつけてご紹介します。
『師諱は日管、濃州の人。長じて東都正法寺佐野日遊師の門に入り、因って其の家を継ぐ。師、人と為り豪宕、義を乗るや貞、事に処するや敏。夙に益世扶宗の志を懐き、学成るや敢然、起って一宗一本の議を倡えられず、去って筑の本佛寺を董す。衆望忽ち琫る。曽て博多湾頭を過ぎ、緬かに元寇の住事を思い毅然志を發し、大聖の巨像を比の地に営みて、立正安国の祖猷を光揚せんことを期す。経営惨憺寝食を忘れ、遂に以て之を成す。是より先、官民相謀りて亀山上皇の尊容を隣域に剏むるの挙あり。
其の業半途にして艱む。官、師の助力を乞ふ。師快諾して、併せ以て之を完成す。是に於て元寇記念のニ大聖像、屹然として白砂、青松の間に並立し、太洋に雄臨するを得。誠に天下の偉観たる。後、擢んでられ、宗務総菅に任ず。幾もの無く布教財團を創ひ、又移民を策し、救恤を勗け感化を励ます等、效績甚だ多し。後に兼て元冠記念館を造り、以て衆を益す。倶に萬世の光と、為すに足る。大正元年9月7日寂す。壽54。挙世、痛惜す。今茲有志相議り、徳業を貞珉に録し、諸を不朽に傳へんと予に題撰を需む。師は予が雙榎の同窓なり。輒ち悦こんで嘱に應ずと云ふ。』
昭和9年5月
田中智学 篆井敍
23回忌の祈り建立
立教開宗750年の砌 第12世主管日修代
(ふりがな省略)
AIに、現代語訳してもらった。
お師匠様(日管上人)の本名は日管、美濃国(現在の岐阜県)の出身です。大人になってから、東都(東京)にある正法寺の佐野日遊師のもとで修業を積み、その跡を継ぎました。
お師匠様の人柄は、豪快で小さなことにこだわらず、正義を貫く姿勢は固く、物事を処理する動きは非常に迅速でした。若い頃から、世の中を良くして宗派を支えようという志を抱いていました。学問を修めると、果敢に立ち上がって「一宗一本(日蓮宗の魂を一つにする)」の議論を唱え、その後、筑前(福岡県)の本佛寺の住職となられました。人々からの人望はたちまち高まりました。
かつて博多湾の海岸を通りかかった際、遠い過去の元寇(蒙古襲来)の歴史に思いを馳せ、強い決意を固められました。そして、日蓮大聖人の巨大な銅像をこの地に建て、国家の平穏を願った日蓮の教え(立正安国)を世に広く輝かせようと誓ったのです。その建設事業は苦労の連続で、寝食を忘れて取り組み、ついに完成させました。
これより少し前、政府と民間が協力して、隣の敷地に亀山上皇の像を建てる計画がありました。しかし、その事業は途中で行き詰まっていました。そこで政府はお師匠様に協力を求めました。お師匠様はこれを快諾し、こちらも合わせて完成へと導いたのです。これにより、元寇を記念する二つの巨大な聖像が、白い砂浜と青い松林の間に堂々と並び立ち、大海原を見下ろすようにそびえ立つこととなりました。まさに天下の素晴らしい奇観です。
その後、お師匠様はその手腕を認められて宗務総管(宗派の最高責任者の一職)に抜擢されました。まもなく布教財団を設立したほか、海外移民の政策を推進し、生活困窮者の救済に努め、人々の教化を励ますなど、その功績は極めて大きなものでした。後には元寇記念館も併設し、多くの人々の利益としました。これらはどれも、末永く未来を照らす光とするにふさわしいものです。
大正元年9月7日、54歳で亡くなられました。世間はこぞってその死をひどく惜しみました。この度、有志たちが話し合い、お師匠様の立派な業績を石碑に刻んで永遠に後世へ伝えようと考え、私に記念碑の文章(題撰)を書いてほしいと依頼してきました。お師匠様は、私と同じ学校(雙榎学舎)で学んだ同窓生です。そのため、喜んでこの依頼をお引き受けすることにいたしました。
(Geminiによる)

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