「歩く・生まれる・昇る」冨永朝堂

2023.10 撮影
タイトル歩く・生まれる・昇る
作者冨永朝堂
設置場所福岡市中央区 西中洲公園
製作年1972
備考戦災復興土地区画整理事業完成記念

西中洲公園に設置されている冨永朝堂の鎮魂と再生の像。碑文は下記の通り。

福岡市は第二次世界大戦末期の昭和20年6月19日午後10特30分ごろから約2時間にわたり、米空軍B29爆撃機約60機による焼い弾攻撃を受け、都心部のほとんどが焦土と化した。その被災状況は、面積約4平方km、人口約6万人、戸数約1万3,000個に及んだ。
昭和20年8月15日終戦を迎えて国は全国115都市の戦災復興の急務に鑑み、復興の基本計画を策定するとともに、特別都市計画法を制定した。本市もこれに基づき昭和22年1月22日福岡都市計画復興土地区画整理事業の認可を得て事業に着手した。事業は混乱した戦後の社会状況のなかで多くの困難はあつたが関係者の協力を得て着手以来25年の歳月を経て、昭和47年2月22日完了するに至った。ここに事業完成の業績を顕彰し、記念群像を建立する。

福岡市長 阿部源三
補記

碑文に記されている福岡大空襲の規模については、昭和50年に明らかにされた米国防総省の機密文書によれば、爆撃航空機B29の数は、221機と記録されている。

冨永朝堂は1897年に福岡市の家具屋に生まれる。朝堂は、初めは絵画、次に家業と関連する彫刻を志すが家族に反対され、1915年に実家を飛び出し東京に行く。東京では山崎朝雲に入門し木彫を学ぶ。1944年、朝堂は戦火を避けるために東京から太宰府市に疎開、以後、太宰府を拠点に創作活動を行う。1945年の福岡大空襲を朝堂はすぐ間近で体験したことになる。

福岡大空襲では、博多、天神という福岡市街の中心地が集中的に爆撃を受けた。奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が特に大きく、簀子ではわずか2軒を残して他全て灰燼に帰したという。死者・行方不明者数は1,000人。故郷の惨禍を、朝堂はどのように見ていたのだろう。

この作品の向かって左は「昇る」、真ん中が「生まれる」、右が「歩く」ということだ。これらの作品は、元々1966年、1967年、1968年にそれぞれ制作されたもの。この時代の彫刻家としては、極めてモダンで芸術性の高い作品だと思う。記念碑製作にあたっては、新作ではなく、この3作品を組み合わせたものにしたという。再生への祈りを、その魂を込めて表現した渾身の傑作だと感じる。

下記のHPを参考にさせていただいた。

blog.livedoor.jp/aqa_art/archives/51543041.html

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