
| タイトル | 山岡鉄舟の碑 |
| 作者 | 不明 |
| 設置場所 | 東京都豊島区 雑司ヶ谷鬼子母神堂 |
| 製作年 | 1873 |
山岡鉄舟は幕末から明治にかけて活躍した幕臣・新政府の官僚。1836年生まれ。山岡には3つの顔がある。それは、剣術家・書家・禅の実践家という3つの側面。剣については、千葉周作らに剣術を、山岡静山に忍心流槍術を学び技量抜群、1856年から講武所の世話役をつとめる。1868年に幕府の精鋭隊の歩兵頭格となり、戊辰戦争では勝海舟に先立ち西から攻め上がる西郷隆盛と会談し、江戸無血開城の立役者となった。維新後は、西郷隆盛に請われ新政府に出仕し、明治天皇の侍従になった。
また、自身の道場「春風館」や、宮内省の道場「済寧館」で有為の剣士を指導した。その苛烈な剣は「鬼鉄」と呼ばれた。一刀正伝無刀流の開祖。
鉄舟の禅は臨済宗の禅。20歳に長徳寺の願翁和尚のもとで修行を始め、その後、龍澤寺の星定、相国寺の独園、天竜寺の滴水、円覚寺の洪川のもとで修行した。43歳のとき滴水禅師から悟りの証である「印可」を得る。鉄舟は「剣禅一如」をモットーにしていて、技と心の両方を鍛えることに努めた。幕末から明治維新という激動の時代、これだけの剣豪でありながら、鉄舟は一人の人も斬っていない。
山岡鉄舟は書の達人でもある。鉄舟は岩佐一亭に入門し、書の真髄を学び、弘法大師流入木道52世を授けられる。その墨跡は豪放闊達でありながら洒脱。剣と禅で極められた心が書の表現にも立ち現れている。ここ雑司ヶ谷ではその達筆を碑文として楽しむことができる。
衆生心水浄 菩薩影現中
「人々の心が水のように清ければ、その心に菩薩が立ち現れる」くらいの意味か。これは戊辰戦争で敗れた彰義隊を鉄舟が偲んだ碑。側面に紀元2533年と彫られている。西暦だと1873年。明治維新直後に、賊軍の彰義隊を顕彰するのは極めて憚られることだったが、表面には大書せず裏面に彰義隊のことが記されている。
1888年に胃癌のため51歳で没す。皇居に向かって只管打坐したままの絶命だった。



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