「乃木大将夫妻瘞血之處」

2023.9 撮影
タイトル乃木大将夫妻瘞血之處
作者不明
設置場所東京都港区 乃木公園旧乃木邸
製作年1913

この碑は、乃木希典とその妻・静子が自刃して亡くなった時に身につけていた衣服などを埋めた場所の上に建てられたもの。

乃木希典は長州藩の支藩・長府藩士の子として1849年に江戸で生まれる。子どもの頃は虚弱体質で臆病な性格、幼名を無人(なきと)といい、からかわれてよく泣かされたという。

軍人としては第二次長州征伐に長州側として出征、戊辰戦争こそ負傷のため参戦できなかったが、22歳で明治新政府陸軍の少佐に任官、秋月の乱、西南戦争、日清戦争、台湾征討などで軍功をあげる。

第三軍司令官として臨んだ日露戦争で、乃木は旅順攻略を担当する。前の日清戦争では乃木はやすやすと旅順を陥すことができたが、ロシアにより堅固な要塞に生まれ変わった旅順は難攻不落だった。何度も正面から総攻撃を仕掛けるが旅順は陥ちず、夥しい数の大日本帝国将兵が骸となり遼東半島の大地を埋めた。乃木は、標的を203高地に変更しこれを陥落させ、遂に旅順攻囲戦に勝利する。この戦いで、日本軍の死者は15,400人、死傷者は60,000人にのぼった。また、希典の長男・乃木勝典は旅順北部の南山の戦いで、次男・乃木保典は203高地で相次いで戦死し、乃木家の跡は絶えた。

日露戦争勝利の立役者として乃木は軍神と呼ばれ、世界からも賞賛を浴びるが、明治天皇の前ではあまりの犠牲の多さに深く詫び、自ら割腹を申し出るが明治天皇が慰留して制止した。その後、乃木は天皇の意向で学習院の院長に就任し、教育者として後の昭和天皇の教育係も務めた。

乃木静子は薩摩藩の藩医の娘として生を受け、麹町女学校を卒業後、20歳で乃木希典と結婚した。長男・勝典、次男・保典をもうけたあと2児を出産するがともに夭折。姑と折り合いが悪かった静子は勝典と保典を連れて別居したこともあった。そんな時も、勝典と保典は良き支えになったという。旅順で26歳の長男・勝典を失った時、静子は3日3晩慟哭し続けたという。22歳の次男・保典はその半年後に203高地で落命する。静子は動ずることなく受け入れたように見えたが、ショックのあまり生きた感じを見受けられないような外見になったと言われている。

1912年7月30日に明治天皇が崩御する。大喪の儀が執り行われた9月13日の夜、乃木希典は妻の静子と共に、自宅であったこの地で自刃した。乃木希典62歳、乃木静子52歳の生涯だった。

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