
| タイトル | 鷺塚 |
| 作者 | 不明 |
| 設置場所 | 神奈川県平塚市総合公園 |
鷺塚の背後にある由緒書きには、下記の内容が記されている。なお、文字が判読し難い箇所を推定で補った。
昭和13年8月31日夜半より、9月1日払暁の暴風雨のため惨死した白鷺五位鷺の霊を弔うものなり。
昭和14年2月建之 火薬廠第一工場
総合整備事業は、市政50周年事業として、昭和の城造りと命名され、21世紀への橋渡しとなるまちづくり、自然を愛し心ふれあう明るく住みよいみんなのまちひらつかを目指し、市民のスポーツレクリエーションの活動の場として、また災害時の避難広場として整備をすすめた。
この事業に対し海車火薬廠追想録刊行会、平塚しらさぎライオンズクラブの寄贈によりコンクリート製塚を白御影石で復元し、塚を再整備しました。
公園計画では鷺塚に野鳥の森を隣接させ、自然を愛し、愛鳥精神を後世に引き継いでいくものとした。
昭和63年11月吉日
1938年(昭和13年)の台風では、ここ火薬廠第一工場内の林で営巣していた500羽以上の鷺が死んだと伝えられている。昭和13年台風は9月1日に神奈川県の三崎に強い暴風雨を伴って上陸し、神奈川、東京から福島、新潟に抜け、甚大な被害をもたらした。人間の死者・行方不明者は245人、倒壊した家屋は13,223棟、浸水した家屋は158,536棟を数えた。
平塚の火薬廠は、大日本帝国海軍の弾薬を製造保管する巨大な軍事施設だった。規模は、現在の平塚総合公園を含む38万坪に及んだ。1905年に設立されたイギリスに本社がある日本火薬製造株式会社平塚製造所をその母体とする。1919年に 「海軍火薬廠令」に基づき日本海軍により買収され、「海軍火薬廠」となる。宮城県船岡町と京都府舞鶴にも支廠などができたため、1941年からは「海軍第二火薬廠」となる。
海軍第二火薬廠は、1945年7月16日の平塚大空襲の主要な攻撃目標となり壊滅的な被害を受ける。戦後火薬廠は廃庁となり、跡地の南部分は横浜ゴムに払い下げられ、横浜ゴムの工場として現在も稼働している。北部分は、農林省の果樹試験場となり、1982年からはこの平塚市総合公園として市民に親しまれている。実際の敷地は、横浜ゴムの工場と総合公園を合わせたより、更に広い面積だった。
1938年には500羽のシロサギが暴風雨の犠牲になったが、1945年7月の夜半の米軍機の空襲ではどれだけのシロサギが焼夷弾や備蓄弾薬の爆発により命を失ったのだろうか。戦争は人間の命を奪うだけではない。

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