「伊能忠敬銅像」酒井道久

2022.9 撮影
タイトル伊能忠敬銅像
作者酒井道久
設置場所東京都江東区 富岡八幡宮
製作年2001
備考伊能測量200周年記念

伊能忠敬には前半生と後半生がある。

忠敬は1774年に現在の九十九里町の小関家に生まれる。幼名三治郎。17歳で佐原の伊能家に入婿する。佐原は商売の盛んな地域だったが、伊能家は中でも名家だった。忠敬を当主として迎えると、もとの造り酒屋だけでなく酒の材料の米の流通から水運、不動産まで手を広げ家業を興隆させた。24歳の時に祭礼に関する村中を巻き込んだトラブルが発生するが忠敬の行動で収めることができた。また、幕府からの新たな課税に対し、代表として陳情書を書き負担を最小限に食い止めるなど地域にも貢献した。名主の時、浅間山噴火により天明の大飢饉が起こった。忠敬はいち早く関西から米を買入れ、窮民には施しを与え、佐原からは1名の餓死者も出さなかったという。利根川の治水にも関わり、そのため測量の技術も身につけた。

1795年に忠敬は家督を長男に譲って江戸に出る。忠敬50歳。ここからが後半生である。暦学に興味があった忠敬は、江戸に上ると19歳年下の幕府天文方・高橋至時に弟子入りし暦学を学ぶ。この頃、幕府は暦を新たに改めることを計画していた。暦は天文学と関わっており、忠敬は地球の子午線1度がどれだけの距離かを求めようとした。至時と一緒に幕府と交渉し、1800年に忠敬は測量を兼ねて蝦夷地への探検に出発する。忠敬55歳の時である。その後、日本全土に合わせて10回の測量調査の遠征を重ねる。

忠敬は富岡八幡宮にほど近い門前仲町に住んでいた。10回の調査のうち、遠国に出かけた第8回までは、随行者とともに富岡八幡を参拝してから出発した。この彫刻も、志を持って着実に歩みを進める旅姿に、勇気をいただける。酒井道久は1950年東京生まれの彫刻家。写実性高く忠敬の内面まで伝わるようだ。

1815年の第10次の江戸府内測量を終えると日本初の測量による精密な日本地図の作成に当たった。1818年、編纂中だった地図の完成をまだ見ぬまま、忠敬は逝去する。74歳だった。1821年に忠敬が心血を注いだ地図「大日本沿海輿地全図」が完成。幕府に上程され、秘匿されていた忠敬の喪も発表された。

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