「孝養の像」加藤知彦

2023.5 撮影
タイトル孝養の像
作者加藤知彦
設置場所東京都大田区 ボートレース平和島
製作年1980

碑文は下記の通り。

孝養の像への讃歌
笹川良一作

母背おい宮の
きざはしかぞえても
かぞえつくせね
母の恩愛
笹川良一氏59歳のとき
82歳の母を背負い
お宮参りの姿

笹川良一は1899年に大阪府の庄屋の家に生まれる。戦前は右翼の活動家として活動。ムッソリーニを崇拝していた。国粋大衆党の総裁として、満蒙進出、満州国承認、国際連盟脱退、天皇機関説批判、南洋進出などを主張した。1942年の衆議院議員選挙では大阪5区から立候補して当選する。この選挙は「翼賛選挙」と呼ばれ、主要政党が全て解党し大政翼賛会に参集したものだったが、国粋大衆党の笹川良一は大政翼賛非推薦候補だった。戦後、1945年12月にA級戦犯として巣鴨プリズンに収監され、3年間勾留された。また、1946年に公職追放となった。

1949年に出所した直後から、競艇の法制化を目指して国に働きかけ、1951年にモーターボート競走法が成立、笹川はその主催者となる。はじめは赤字続きだったが、笹川が私財を投じ、1960年ごろから収支が好転する。儲かってきた競艇を管理下に置こうとする運輸省に対し、笹川は日本船舶振興会(後の日本財団)を設立するなどして対抗した。日本財団は競艇の収益を慈善事業に提供し続け、後年の笹川には慈善事業家としての一面も生まれた。

この像は、82歳の母を背負って金毘羅宮の階段を登る笹川の像。笹川の生前に建てられた。パブリックアート鑑賞者としてはとても気になる作品。親は、いわば支配の象徴で、その親を背負うことは、その支配からの卒業を意味することにつながる場合もある。笹川の母について記された資料は少ないようだが、想像すると、笹川には母親に対する複雑な愛があり、その母を乗り越えることが笹川の人生のテーマだったのかもしれない。親に反発したこともあっただろう。青年期の右傾も、後年の篤志家としての顔も、母に対するアンビバレンスが根底にあったのかもしれない。だからこそ、笹川には母を背負う像が必要だったのではないだろうか。

かつてファシストとして、他国を支配下に置き異文化を排斥することを訴えてきた笹川は、戦後「世界は一つ 人類はみな兄弟」と真逆のアピールするようになる。それが何故かと考えたりすると、鑑賞の面白みも深くなる。

加藤知彦は1938年、愛知県碧南市に生まれた彫刻家。1955年に日展初入選。1957年に第1回全国学芸コンクール内閣総理大臣賞、日本芸術院長賞受賞。

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