
| タイトル | 支倉常長の碑 |
| 作者 | 不明 |
| 設置場所 | 仙台市青葉区 仙台市博物館 |
| 製作年 | 1961 |
支倉常長は1571年生まれの伊達家の武将。武将としては文禄・慶長の役に従軍して朝鮮半島に渡ったり、葛西大崎一揆で一揆軍と戦ったりした。
支倉は伊達政宗の命により、慶長遣欧使節の副使としてヨーロッパに派遣されることになる。正使は、スペイン人宣教師のルイス・ソテロだった。派遣の背景には、伊達とスペインが同盟を結び、徳川を倒して天下をとる狙いがあったという説もある。
1613年9月15日に使節団を乗せて現在の宮城県石巻市を出港したサン・フアン・バウティスタ号は、1614年1月にメキシコ西岸のアカプルコに到着。3月に支倉らはメキシコ中央のメキシコシティ入り。さらに東側のベラクルスに移動し、ベラクルスからスペイン艦隊のサン・ホセ号に乗船。7月にキューバに到達。キューバから大西洋を横断する。10月5日には、スペイン南部に到着する。セルビアを経て、12月にはスペイン・マドリードに入り、1615年1月30日にスペイン国王・ファリベ3世との謁見を果たす。そして2月17日に国王隣席のもとマドリードでキリスト教の洗礼を受ける。支倉の洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ。
同1615年10月に使節団一行はローマに入り、10月29日に名誉あるローマ入市式が執り行われた。11月3日に支倉は、ソテロらとともにローマ教皇パウロ5世に謁見する。翌1616年1月にローマからセルビアに戻り、1617年4月に帰国の途に就き大西洋を横断。メキシコの東から西へ移動し、迎えていたサン・フアン・バウティスタ号で太平洋を戻る。フィリピンのマニラに到着したのが1617年8月。ここでサン・フアン・バウティスタ号を売却し、支倉は便船で1620年8月24日に日本に戻った。
日本では、徳川幕府による禁教令が発せられていたため、支倉は冷遇され、失意のなか1622年7月1日に亡くなった。支倉常長の「常長」を、生前、自らが使った形跡は残っておらず、本人は六右衛門か長経を名乗っていた。「常長」は、先祖がキリシタンだったことにより災厄に巻き込まれることを嫌って、子孫がそう呼び換えたのではないかとも言われている。なお、正使のソテロは常長が死歿した1622年に日本に密入国したものの捕縛され、1624年に火刑に処された。
支倉常長の死には異説がある。常長を惜しんだ伊達政宗が常長の死を擬装して本人を匿い、常長は隠遁して長寿を全うしたとするもの。真相はどうだったのだろう。
碑文は下記の通り。
THE MONUMENT OF
TSUNENAGA HASEKURA
1615年9月12日サン・ピエトロ宮に於いてローマ法王パオロ5世ニ伊達政宗卿書状ヲ奉呈スル支倉常長
東洋文庫復刻アマナ著日本奥州国伊達政宗記並使節紀行挿図ニヨル
1961年5月例会100回記念
仙台ライオンズクラブ



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