「嘉納治五郎」松田光司

2022.11 撮影
タイトル嘉納治五郎
作者松田光司
設置場所東京都新宿区 日本オリンピックミュージアム
製作年2019

柔道の創始者である嘉納治五郎は、東京高等師範学校の校長として、柔道のみならず、水泳、長距離走、テニス、サッカーなど様々な競技を推奨し、学校教育におけるスポーツの位置を高めた。1909年、嘉納は駐日フランス大使から要請され、日本人初の国際オリンピック委員会の委員に就任する。嘉納はオリンピック創始者・クーベルタン男爵の3歳年上にあたる。嘉納は1912年の第5回オリンピック参加をめざし、大日本体育協会をたちあげ初代の会長を務める。そして、この1912年大会で、日本選手としてはじめて、短距離走の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2名の出場を果たすことができた。

嘉納はさらに、日本の地でのオリンピック開催をめざした。1940年の東京オリンピック開催に全力を尽くした結果、日本はその招致を決定させる。1938年3月に、嘉納はカイロで行われたIOC総会に出席するが、帰国の途中肺炎に倒れ、5月4日に太平洋上の氷川丸船中で帰らぬ人となった。享年79歳。嘉納が夢見た1940東京オリンピックは、日中戦争や軍部の反対により開催権を返上。再招致活動により、アジア初となる東京オリンピックの開催が実現するには、1964年まで待たなければならなかった。

クーベルタン男爵は、嘉納治五郎の亡くなる1年前の1937年に逝去している。

松田光司は1965年、愛知県春日井市出身の彫刻家。東京藝術大学卒業、同大学院修了。現代の具象彫刻の名匠。この嘉納像には、内面から貫かれた信念を感じる。朝倉文夫作品と並ぶ良作だと思う。

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