「浅野總一郎像」慶寺丹頂

2022.9 撮影
タイトル浅野總一郎像
作者本山白雲(オリジナル)、慶寺丹頂(再建)
設置場所横浜市神奈川区 浅野中学校・浅野高等学校
製作年1924(建立)、1958(再建)

浅野總一郎は1848年生まれの実業家。富山県の現・氷見市の医家に生まれるが、商人を目指して1971年(明治4年)に上京。23歳だった。初めは夏の氷屋、冬のおでん屋からスタートすると、横浜に移り竹皮商、薪炭商から、横浜瓦斯会社より仕入れたコークスやコールタールを商い巨万の富を得る。1884年には官営深川セメント製造所の払い下げを受け、浅野セメントとして経営の基幹とする。工業を訪れた渋沢栄一は、炭で真っ黒になって人足とともに働く浅野に驚愕したという。

渋沢栄一の後ろ盾もあり、水力発電や港湾建設にも事業の幅を広げ、さらに、東京から横浜にかけての沿岸部を埋立て、運河をつくり、巨大な工業地帯をつくる計画を実現した。また、1920年にここ神奈川区に浅野綜合中学校を設立。現在も有為の人材を輩出している。

この銅像は、1924年に浅野の喜寿を祝って本山白雲の手により製作された。除幕式には渋沢栄一や後藤新平をはじめ、5,000人とも30,000人とも言われる関係者が参列した。戦時中の金属供出により撤去されたが、真っ二つになった銅像を全校生徒450人で見送ったという。

銅像の浅野は、よれよれの洋服に半ズボン、つぎはぎだらけの脚絆姿、帽子にステッキといういでたち。現場をとことん愛した男だった。若い頃、何度も事業を立ち上げては失敗し、七転び八起きならぬ「九転十起」の男と呼ばれた。その信念の強さは、慶寺丹頂の手がけた再建版にも色濃く浮かんでいる。

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