「蘭学の泉はここに」

2022.10 撮影
タイトル蘭学の泉はここに
作者不明
設置場所東京都中央区 聖路加国際大学脇
製作年1982
発祥年1771〜

碑には、次のように彫られている。

 1771年・明和8年3月5日に杉田玄白と中川淳庵とが前野良沢の宅に集まった。良沢の宅はこの近くの鉄砲洲の豊前中津藩主奥平家の屋敷内にあった。三人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきようからこの本を訳しはじめようと決心したのである。
 ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに1774年・安永年8月に解体新書5巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学がさかんになった。このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。

福沢諭吉が築地の豊後中津藩奥平家の中屋敷で蘭学塾「一小家塾」を開いたのが1858年、前野良沢らが蘭学を研究したのも、やはり同じ奥平家の中屋敷の一角で1771年からということになる。福沢が「西洋事情」を書いたの80年以上前に、同じ場所で「解体新書」も書かれたということになる。

前野良沢は中津藩の藩医で1723年生まれ。杉田玄白は小浜藩の藩医で1733年生まれ、中川淳庵も同じ小浜藩の藩医で1739年生まれ。3人は1771年に小塚原の刑場で罪人の腑分けを見る。前野良沢が長崎留学中に入手したるオランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」がいかに正確かに驚愕し、3人で翻訳に当たることを決意する。

なお、京都の山脇東洋が腑分けをみたのは1754年、山脇の「臓志」が発行されたのが1759年なので、あちらの方がちょっと早い。

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