
タイトル | 福澤諭吉終焉之碑記念碑 |
作者 | 不明 |
設置場所 | 東京都港区 慶応義塾大学三田キャンパス |
製作年 | 1971 |
碑文は、この写真にも写っているが読みにくく、文として読み取れないので、下記HPから引用させていただく。(https://masapn2.hatenablog.jp/entry/mita-240203)
豊前国中津藩下級士族の子として生まれ門閥の檻の中から飛び出したまたま蘭学を修業し洋学塾を開き米欧に遊び教育奉仕の一念に燃え西洋文明東道の主人となり封建的農業国家から統一的商工国家に移ろうとして多難な国の歩みを続けている新日本を指導した福沢諭吉はその多彩なる68年の生涯をこの地に終わる
この場所は慶應義塾大学の一角だが、ここに福沢の自宅はあった。福沢の死因は脳出血とされている。最初の脳出血は1898年で一時危篤となった。一旦回復するも、1899年にも軽いものを発症。1901年1月25日にはまた脳出血で倒れ、同2月5日に再出血し帰らぬ人となった。68歳の生涯だった。諭吉は意外にも大変な大酒飲みで、ベビースモーカーでもあった。また、居合を日課としており、一日千回抜刀していたという。
最初に倒れた後も、「修身要領」の編纂にたずさわり、1900年2月には完成発表を三田演説会で行った。また、ちょうどこの間には19世紀から20世紀への年越しがあった。和暦と皇紀が主流で西暦がほとんど使われなかった時代に、1900年12月31日、諭吉は「世紀送迎会」を催す。死去の2ヶ月前だった。2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、埋葬されている麻布山善福寺では毎年法要が執り行われる。
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