
タイトル | 東京音楽大学発祥の地 |
作者 | 不明 |
設置場所 | 東京都千代田区 猿楽公園 |
製作年 | 1997 |
発祥年 | 1907〜 |
東京音楽大学は1907年に鈴木米太郎によって設立された東洋音楽学校を祖とする。鈴木米太郎は1868年生まれ。父は旗本の鈴木重教。麻布笄町に生まれる。明治維新により、鈴木家は将軍家が移った静岡に転居する。1873年に一家で再び上京。鈴木は東京府立学校(後の都立日比谷高校)、東京英学校、音楽取調所伝習生と進み、音楽取調所から改称になった東京音楽学校(後の東京藝術大学)を卒業する。
初め神奈川県高等師範学校で英語と音楽を教え、東京高等師範学校に移ると音楽の専門的な教育を学生に授けた。教職の傍ら、自らも管弦楽団の組織運営に関わる。1903年には東京高等師範音楽科主任教授の職を辞し、東京盲唖学校に移り、視覚障害児の音楽教育に力を注ぐ。また、日清戦争後に急増した中国からの留学生への唱歌指導も行い、1906年には中国を視察した。
1907年に当地で東洋音楽学校(後の東京音楽大学)を創設。海外からも有力な講師を招き西洋音楽の優秀な演奏家を育てるとともに、雅楽の専門学科も創設した。卒業生は、交響楽団など様々な音楽シーンで活躍。浅草オペラにも進出した。清国からの留学生も多数受け入れたという。主な卒業生は、船村徹、黒柳徹子、淡谷のり子、菅野祐悟、佐藤直樹、米山正夫、篠原敬介、春日八郎、松下奈緒、山崎育三郎(中退)など。
この地は神田駿河台である。駿河台の地名の由来は、家康の地元である駿河から多くの家臣が移住し旗本として住んでいたから。明治維新のため江戸幕府直参の旗本たちは職を失いこの地を去った。その広大な跡地に多くの学校が設立された。東京音楽大学もその一つ。旗本の家に生まれた鈴木が、この地を学校開設の場に選んだのも偶然ではないのかも知れない。旗本の次男として生まれた鈴木米太郎にとって、明治維新はその人生を切り拓くためのまたとない幸運だったのだと思う。
碑文は下記の通り。
東京音楽大学発祥の地
東洋音楽学校は、明治40年5月1日この地に設立された。
校長鈴木米大郎は音楽教育の先駆者である伊沢修二、高楠順次郎、島崎赤大郎らを評議員に迎え、わが国音楽文化の近代化を目指して創立した。
平成9年(1997)年4月1日建立 東京音楽大学
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