「日米和親条約調印の地」

2022.7 撮影
タイトル日米和親条約調印の地
作者不明
設置場所横浜市中区 開港広場

1853年にベリーが来航し幕府に衝撃を与えた。翌1854年には東京湾深く横浜沖まで進入する。幕府はペリーに浦賀沖まで戻るよう交渉するが艦隊は動かず、ペリーは条約の調印場所として江戸を要求する。江戸が無理なら品川か川崎を求めるも、最終的に横浜となった。

約1ヶ月の交渉ののち、同1854年3月31日に日米和親条約はこの地で締結された。日本側の担当者は、大学頭林復斎がつとめた。日米和親条約はアメリカの片務的最恵国待遇を認めた不平等な条約だった。

1856年には、さらに屈辱的な不平等条約である日米修好通商条約が締結される。交渉役の井上清直と岩井忠震が調印したのはアメリカのフリゲート艦の上だった。僚艦から大砲の音が轟き、他国艦隊の偽情報に脅されながらの交渉だったという。こちらは洋上なので締結場所の記念碑はない。

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