
タイトル | 嘉納治五郎先生像 |
作者 | 朝倉文夫 |
設置場所 | 東京都文京区 講道館ビル |
製作年 | 1960 |
備考 | 生誕100年記念 |
嘉納治五郎は、1860年生まれ、兵庫県出身の柔道家、教育者、貴族院議員。治五郎は、兵庫の酒造・廻船の名家に生まれる。菊正宗酒造と白鶴酒造の分家筋にあたる。治五郎の父・治郎作は入婿だったので家督を義弟に譲り、明治政府が発足すると、1870年(明治3年)に、9歳の治五郎を伴って上京し新政府の要職についた。
治五郎は幼い頃から学問に励み、書道、漢学、儒学、英語、ドイツ語などを学んだ。14歳で育英義塾に入塾。大学は、まず官立外国語学校(後の東京外国語大学)に入学、卒業し、次に官立開成学校に入学すると在学中に東京大学に改組となり、ここでは政治学、理財学、漢文学、哲学、審美学などを学んだ。
治五郎は東京大学在学中に柔術を習い始める。幕府の最後の講武所師範だった福田八之助を師に研鑽を積み、1881年に東京大学を卒業すると、1882年に台東区の永昌寺に「講道館」を開所。独自の崩しの理論を確立して「柔道」を創始した。段位制もこの時生まれた。今や世界のメジャースポーツとなった柔道は、12畳と7畳のわずか二間から始まった。
教育者としては1882年に学習院講師となると、学習院教頭兼教授、第五高等中学校長、第一高等中学校長などを経て1893年から高等師範学校長・附属中学校長を23年間務める。そして、講道館柔道を広めるとともに日本古来の武術の継承にも力を入れ、教育としての体育の在り方を確立した。また、国際オリンピック委員会の委員として日本のオリンピック招致に尽力した。
子どものころから勉学では誰にも負けなかった治五郎だが、体格が貧弱で、運動はからきしダメだったという。どんなに勉強ができても金持ちの子であっても、体が弱いことで馬鹿にされた。育英義塾の寄宿舎でも先輩からの苛烈なイジメがあったという。そこで、非力でも強大な相手を投げ飛ばせる柔術を志向した。傷ついた治五郎の流した涙が、後に柔道を通して世界中の非力なイジメられっ子たちの魂を救った。
同じ文京区内の高等師範学校跡地にも、朝倉文夫作の同一の銅像が置かれている。
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