「佐々木東洋先生の像」

2023.1 撮影
タイトル佐々木東洋先生の像
作者不明
設置場所東京都千代田区 杏雲堂病院
製作年1920

佐々木東洋は1839年、江戸本所生まれ。外科兼薬屋の家に生まれた東洋は、上総の佐倉順天堂で佐藤泰然、後継者の佐藤舜海(尚中)に師事。その後、尚中の随員として長崎でオランダ海軍軍医ポンペに学ぶ。その後、地元に戻る。明治に入ると、佐藤尚中ともに大学東校(後の東京大学)に出仕。東京府立病院副院長、大学東校病院長などを務める。

東洋は西洋医学のエキスパートだったがヒヤリングは苦手だったようだ。長崎では通訳なしのポンペのオランダ語の授業に付いて行けず、他の履修者が残るなか、1人だけ2年で切上げて江戸に戻った。また、最初に出仕した大学東校では、ドイツ人医師・ホフマンが解剖したときに行き違いが生まれた。東洋が打診のやり方を見せてくれるよう依頼したのを、自分を試したと誤解したホフマンに睨まれるようになる。東洋は、自ら打診と聴診について勉強を重ね、仲間から「叩きの東洋」と言われるようになる。そして1年後には「診法要略」という日本初の打診・聴診の専門書を出版するまでとなる。ホフマンの信用も回復する。東京府立病院副院長の時も、アメリカ人医師・アッシミードと診療方針について激しく対立し、東洋が正しかったが結局辞職することになる。

1878年、国民病の一つであった脚気について、西洋医学と東洋医学とどちらが有効か確かめるため、政府が脚気病院を設立した。洋方医部門は東洋が責任者となり、漢方医部門は遠田澄庵が担当した。当時は「東西脚気合戦」と呼ばれた。治療成果は東洋の西洋医学に軍配が上がり、脚気病院は検証予定の3年を待たずに閉院となった。東洋はこれに飽きたらず、自ら、脚気の専門治療ができる病院を設立した。これが杏雲堂病院である。

古代中国・三国時代の呉の医師・奉薫は、貧しい人からは治療費を受け取らず、代わりに1本の杏の木を植えてもらったという。その杏は万本を超えたといわれる。東洋は、この故事にちなみ設立した医院を「杏雲堂」と名付け、貧しい人も受け入れる制度を整え、情熱と真心を持って診療に当たった。まさに仁医だった。

説明板は下記の通り。

佐々木東洋
(西暦1839-1918年)

天保10年、江戸本所四つ目生まれ。
佐藤泰然の佐倉順天堂塾を経て長崎へ留学し、ポンペからオランダ医学を学ぶ。
東京に戻り、明治4年に大学東校医長に就任。
博愛舎、東京府立病院を経て、明治7年、36歳で大学東校病院長に就任。
辞任後、政府の脚気病院で洋方医部門を担当したが、42歳で神田駿河台に杏雲堂医院設立。
東京府医師会本部幹事、神田区医師会会長を歴任。
この間、戊辰戦争、西南戦争に軍医として参加。
明治29年、57歳で引退し佐々木政吉が杏雲堂医院長に就任。
大正7年、80歳で没。
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