
タイトル | ハイセイコー号 |
作者 | 田畑功 |
設置場所 | 東京都品川区 大井競馬場 |
製作年 | 2000 |
ハイセイコーは1970年代に活躍した地方競馬出身のスターホース。1970年に北海道日高支庁の武田牧場で生まれたハイセイコーは、1972年7月に大井競馬場でデビューすると、重賞の星雲賞含め破竹の6連勝を記録。1973年1月に中央競馬に移籍すると弥生賞、スプリングステークスと勝ち上がり、4月にはクラシック3冠の初戦・皐月賞を完勝して、国内を興奮の渦に巻き込み第一次競馬ブームが湧き上がった。
当時の日本は高度経済成長を遂げ、集団就職で都会にやってくる地方出身者も多かった。大井の地方競馬という下層から勝ち上がりエリート馬を撃破したハイセイコーは時代の寵児となった。
次のクラシック3冠の第2戦・東京優駿(日本ダービー)ではタケホープに0.9秒差の3着と惜敗。デビューからの連勝も9で止まったが、ハイセイコー人気はますます沸騰した。当時はグレード(G1、 G2、G3)制度が導入される前で、8大競走と呼ばれるビックタイトルを獲得したのは皐月賞のみだが、菊花賞では0.0秒差でタケホープに破れるなど惜敗も多かった。また、当時は8大競走ではなかった宝塚記念では5馬身ぶっちぎりのコースレコードで優勝している。
ハイセイコーは1974年12月の有馬記念をもって惜しまれながら引退する。22戦13勝だった。種牡馬になっても活躍は続き、1976年生まれのカツラノハイセイコは、父が敗れた日本ダービーを勝ち孝行息子と呼ばれた。1990年には地方競馬のリーディングサイヤーとなる。
2000年5月4日に、ハイセイコーは北海道の明和牧場で亡くなる。この大井競馬場のハイセイコー像も2000年に建てられたもの。田畑功は様々な具象作品を製作しているが、この作品も気品があって美しい。ハイセイコーの右足首の特徴的な白斑や、額の白い流星も忠実に再現している。田畑功は1955年富山県高岡市出身。武将や肖像彫刻など1000点余りの作品を製作している。
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