
タイトル | 二・二六事件慰霊碑 |
作者 | 川元良一(設計)、三国慶一(彫刻) |
設置場所 | 東京都渋谷区 渋谷税務署前交差点付近 |
製作年 | 1965 |
二・二六事件は1936年2月26日に起こった陸軍将校らによるクーデター。青年将校や下士官など1,483人が決起し、高橋是清ら政府の要人や警察官など9名が殺害され、首都東京は4日間にわたって占拠された。将校らは皇道派に属するグループで、天皇を中心とした、軍部が主導する政治体制を目標とし、昭和維新を標榜した。しかし、この二・二六事件に対し昭和天皇が激怒した。天皇に無断で蜂起し、股肱の皇臣を弑したことが許せなかったのだ。決起した将校たちはやむを得ず武装を解いて投降し、首謀者の19人が処刑された。
この慰霊碑の建立者は、事件の決起者の一人である河野壽の兄・河野司である。河野壽は2月26日の早朝5時に、7人の仲間を率い、静岡県湯河原の温泉に投宿していた前内大臣の牧野伸顕を襲撃した。警護の巡査に抵抗され、その巡査は殺害するも、河野と仲間の一人は被弾して負傷する。そして、ターゲットの牧野前内大臣も取り逃してしまう。東京第一衛戍病院熱海分院に入院した河野は、見舞いに来た兄・河野司が密かに渡した果物ナイフで腹部と頚動脈を刺して自刃、16時間後の3月6日朝に絶命した。
渋谷の、NHK放送センター、渋谷区役所、神南小学校のあたりは、かつては「衛戍監獄」という陸軍刑務所だった。逃亡したり軍規を破った兵士らが収監されたが、二・二六事件の首謀者19名がが処刑されたのもこの地だった。刑死者と自決者を含む決起側の22人を含め、被害にあった閣僚や警察官など事件に関係する犠牲者一切の霊を合せ慰めるためにこの慰霊碑は建立されたという。
三国慶一は1899年生まれ、青森県弘前市出身の彫刻家。東京美術学校では朝倉文夫に学んだ。若くから受賞を重ね、日展審査員、日展参与などを務める。
二・二六事件のあと、これを鎮圧した軍の発言力は高まり、時代は、天皇を中心に軍が国を動かす方向に進んでいく。結果として、二・二六事件の数千倍にのぼる日本や各国の尊い命が太平洋戦争で失われた。日本はアメリカに占領され、戦争をすることを自らに禁じた。令和の日本は、草葉の陰の二・二六の青年たちにはどう見えているだろう。この観音が指し示す天。その天は一体どこにあったのだろう。
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