タイトル | 日本近代医学のあけぼの 山脇東洋観臓之碑 |
作者 | 不明 |
設置場所 | 京都市中京区 六角通り |
製作年 | 1976 |
山脇東洋は1705年生まれの医学者。山脇は、医学者としては理論より実践を重視する古医学を学んだ。また、唐代の医学書「外台秘要方」を復刻したりもしたが、西洋医学も学ぶなか、実際の人体の仕組みを科学的、実践的に確認したいという意思を強く持っていた。
1954年に京都所司代の許可を得て、山脇は念願の人体の解剖にようやく立ち会うことができた。西土手刑場で斬首された死刑囚・屈嘉の腑分けが行われたのは閏2月7日。幕府の医官として人体解剖に立ち会い、観察し、記録を作った先駆者となった。1759年に完成した「蔵志」は、日本の解剖書の草分けとなった。下が碑文。
近代医学のあけぼの 観臓の記念に
1754年 宝暦4年閏2月7日に山脇東洋(名は尚徳 1705年〜1762年)は所司代の官許をえて、この地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった。江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。
この記録は5年後に「臓志」としてまとめられた。
これが実証的な科学精神を医学にとり入れた成果のはじめで、日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった。東洋のこの偉業をたたえるとともに 観臓された屈嘉の霊をなぐさめるためここに碑をたてて記念とする。
1976年3月7日
日本医師会
日本歴史学会
日本解剖学会
京都府医師会
この記念碑には山脇の生年が1705年と記されているが、Wikipediaなど、1706年生まれを採っている資料も多く、ネット上では両説が流布している。このページでは碑文に従い1705年生まれと記している。
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