「軍艦山城之碑」

2023.3 撮影
タイトル軍艦山城之碑
作者不明
設置場所神奈川県横須賀市 ヴェルニー公園
製作年1995

軍艦山城は、1915年進水、1917年に竣工した扶桑型軍艦の2番艦。太平洋戦争では第一艦隊第二戦隊に編入され主力の一翼を担ったが、速力が遅めということもあり1944年2〜3月に練習艦として編成された。しかし、同1944年9月に第二艦隊第二戦隊に再編され、同10月にレイテ沖海戦のなかスリガオ海峡で撃沈された。山城の定員は1,350名だが、沈没時には増員されており、この碑によると死者は1624名にのぼるという。生存者は10名だけだった。多くの尊い命がこの軍艦山城と運命を共にした。改めて碑前に追悼の意を表する。

軍艦山城之碑

軍艦山城の艦歴
起工 大正2年11月20日 横須賀海軍工廠
進水 大正4年11月3日 右に同じ
竣工 大正6年3月21日 右に同じ
数次の改装工事に依り次の通りの装備となる
基準排水量 34,700トン
全長 212.75メートル
最大幅 33.20メートル
主機関 75,000馬力
速力 24.5ノット
主砲 36センチ12門
副砲 15センチ14門
高角砲 12.7センチ8門
機銃 25ミリ3連装2基 2連装17基 25ミリ単装10基
*機銃増設のため副砲2門撤去 昭和19年7月
水上偵察機 3機
カタパルト 1機
測距儀 10米測距儀 1基

軍艦山城の戦歴
 軍艦山城は横須賀鎮守府管下最初の超弩級軍艦として平時の連合艦隊において優れた成績を挙げ太平洋戦争勃発するや各地に転戦し、戦局の変化により悲惨な運命となった昭和19年10月捷第一号作戦において西村艦隊の旗艦として比島スリガオ海峡に突入し、数倍に及ぶ米艦隊と激戦、集中砲火の的となり又魚雷艇及び駆逐艦の魚雷攻撃を受け、大破し沈没寸前まで前部砲塔からは間断のない砲撃が続けられたので有りましたが、悲愴にも力つきた。
山城は乗員1600余名と共にスリガオ海峡の海底深く沈んでいった。時に昭和19年10月25日午前4時19分。
ここに亡くなられた方々のご冥福をお祈り致し追悼慰霊祭を挙行し世界平和の願いをこめ、再び戦争の惨禍の起こることのないようにすることを決意し此の碑を建立する。 謹書

平成7年10月25日
軍艦山城之碑建立委員会

(裏面)
艦山城戦没者芳名(出身県別)
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