「正岡子規の文学碑」

2023.3 撮影
タイトル正岡子規の文学碑
作者正岡子規(句)
設置場所神奈川県横須賀市 ヴェルニー公園

刻まれた句は下の通り。

横須賀や
只帆檣の
冬木立

子規

また、近くに立つ説明板には次のように刻まれている。

正岡子規の文学碑

明治21(1888)8月、正岡子規は夏期休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉に遊んだ。
碑の句は、横須賀港内に連なる帆檣(ほばしら)の印象を詠んだもので、句集「寒山落木」に収録されている。
正岡子規は、慶応3年(1867)9月17日、伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)に生まれ、本名を常規といった。
松山中学校時代は政治家志望であったが、上京後は文学に転じ、文科大学国文科(現・東京大学)に進んだ。
子規は、写実(写生)を主張して、空想を排する俳句の革新を行った。その考えを新聞「日本」紙上に、「獺祭書屋俳話」(明治25年)、「俳諧大要」(同28年)として表した。また、句作は生涯に二万句を数え、特に明治25年(1892)から同31年(1898)までは毎年1000句以上を創作した。同30年(1897)には「ホトトギス」が創刊され、以来子規派の雑誌として注目された。一方、同年には、『歌よみに与ふる書』を「日本」に掲載し、短歌の革新にも着手した。これは、俳句で主張した写生を短歌の上にも及ぼしたものであった。
子規は、明治35年(1902)9月19日、35歳の若さで亡くなったが、彼の主張は、俳句では、高浜虚子、河東碧梧桐らが継承し、短歌では、斎旅茂吉、島木赤彦らの「アララギ」派に受け継がれていった。また、彼の提唱した写生文は、夏目漱石、伊藤左千夫ら後続の文学者に影響を与えた。

横須賀市
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