「東京復活大聖堂(ニコライ堂)」ミハイル・シチュールポフ、ジョサイア・コンドル、岡田信一郎

2022.8 撮影
タイトル東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)= (ニコライ堂)
作者ミハイル・シチュールポフ(Michael A. Shchurupov) 🇷🇺ロシア(原設計)
作者ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)🇬🇧イギリス(実施設計)
作者岡田信一郎(修復)
設置場所東京都千代田区神田駿河台
製作年1891、1927〜29(修復)
備考重要文化財

ニコライ堂は、正しくは東京復活大聖堂という。キリスト教の日本ハリストス正教会の本山。正教会は、ロシア正教会、ギリシャ正教会のように各国にそれぞれ1正教会が原則であり、それが日本にもあるということ。信者は1万人ほど。ハリストスはキリストの意味。

日本に正教を伝導したのはロシア人修道士のニコライ・カサートキン。1836年生まれ。サンクトペテルブルク神学大学在学中に日本に興味を持ったニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集に応募し、志願して1861年に北海道・函館に赴任した。1869年(明治2年)に一時帰国して日本ロシア正教伝道会社の許可を得る。その後、函館から東京に移り伝導に努めた。1884年に大聖堂の建築に着手し1891年に竣工した。

原設計はミハイル・シチュールポフ、実施設計はジョサイア・コンドルによる。日本における唯一最古のビザンツ建築の建物である。ビザンツ帝国は東ローマ帝国ともいわれ、西暦395年から1453年まで存続した。ビザンツ建築は、初期のキリスト教伝導のために教会建築などで用いられた様式で、後のギリシャ正教、ロシア正教などの教会の原点となるもの。日本に正教会を作ろうとしたニコライがビザンツ様式を選んだのはよく理解できる。ビザンツ様式の特徴は正方形またはギリシャ十字形の平面の上にドーム構造が作られ、金地の華麗なモザイク、大理石の張石などがあしらわれること。

1904年2月7日、日露戦争が勃発する3日前に、ニコライは正教会に聖職者、信徒を集め集会を開き自身が日本に留まると宣言した。また、日本人正教徒に日本人の務めとして日本の勝利を祈るように勧めた。

1923年の関東大震災でニコライ堂は大きな被害を受ける。1927〜1929年にかけて早稲田大学教授、東京美術学校教授の岡田信一郎により修理、再建が行われた。岡田の手による若干のデザイン変更はあったが、往時の意匠をよく活かした鉄筋コンクリート製の美しい聖堂として蘇った。1962年に国の重要文化財に指定。

病がちだった岡田は、気管支拡張症を悪化させ、1932年に享年50歳(満48歳)で逝去する。ニコライ堂再建の3年後のことだった。

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