中央大学駿河台校舎の碑(1885〜創立)(1905〜駿河台)

2022.12 撮影
タイトル中央大学駿河台校舎の碑
作者不明
設置場所東京都千代田区 三井海上駿河台ビル
製作年1985
発祥年1885〜(創立)、1905〜(駿河台)
中央大学駿河台校舎跡之碑

中央大学の創立者は、増島六一郎ら新進の法曹を中心とした18人の思想家たちであった。これら先覚は、穏健な民主主義を基盤に実務と実証を重んじるイギリス法の理解と普及こそが、わが国の近代化に不可欠であるとして、明治18年9月10日、東京市神田区神田錦町の地に英吉利法律学校を開設した。その後、校名は 東京法学院 東京法学院大学と改められ、明治38年8月 中央大学と改称し今日に至っている。この校名の由来は、学術の中枢たるべきを期したものであり、同時に所在地の神田が東京の中央であるとの意を含むものであった。その後大正12年の関東大震災により錦町校舎が焼失したのを契機として、同15年8月31日、ここ神田区駿河台南甲賀町に移った。爾来54年間の長きに亘って、この地において着実な発展を遂げてきた本学は、昭和55年3月、八王子市東中野の校地に研究教育の近代的な殿堂を整えて移転を完了し、新たな飛躍に向けての努力を続けている。中央大学創立100周年にあたり、この地に繰り広げられた本学の歴史を偲び、記念の碑を建てる。

昭和60年7月8日
中央大学

増島六一郎は1857年に現在の滋賀県、近江の彦根藩藩士の子として生まれる。1870年に上京し開成学校(後の東京大学)に入学、東京大学法学部の第二期を首席で卒業すると1879年ごろからイギリスのミドル・テンプル大学に留学し、法廷弁護士の資格を取得し、帰国後は京橋に法律事務所を開く。神田錦町の明治義塾で講師をしていたが、明治義塾が廃校となったので、跡地を買取り1885年に英吉利法律学校と東京英語学校(後の日本中学)を設立した。増島六一郎28歳の時であった。

その後、学校経営の第一線から退くと弁護士に専念し、その功績から全米弁護士会、カナダ弁護士会、ニューヨーク州弁護士会の名誉会員となった。

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