「立川小唄」

2022.11 撮影
タイトル立川小唄
作者大関五郎(作詞)、町田嘉章(作曲)
設置場所東京都立川市 市政50社周年記念憩いの場
製作年2017

現在の立川市は、江戸時代に甲州街道の渡し場があった柴崎村と、新田開発された五日市街道ぞいの砂川村に分かれていた。明治時代に鉄道が開通すると立川は大きく栄えた。また、大正期に立川飛行場ができて「空の都」と称されさらに繁栄した。この石碑は、「空の都」立川を称えた記念碑。

ライト兄弟が世界初飛行を行なったのが1903年。日本人の初飛行は1910年で、初の国産飛行機が日本の天を舞ったのが1911年。それから10年余り、1922年、ここ立川に飛行場ができた。初め陸軍航空隊が置かれたが、1925年には日本初の民間航空会社が立川に設立され、東京・大阪間の定期便が運行された。また、海外からの飛行機も立川に受け入れた。1929年に、立川陸軍飛行場は「東京飛行場」と名前を変え、官民併用の国際空港として日本の航空時代の先駆けを飾った。1931年に東京飛行場は羽田に移り、のち立川の空港は軍事拠点として重用された。

立川小唄記念碑建立由来

大正11年(1923年)立川に陸軍航空隊が開設、当初軍用だけでなく民間空港としても使用され、国内便の他、諸外国からも多くの飛行橋が飛来し、昭和6年(1931年)羽田空港が出来るまで、国際空港としての役割を担い立川は「空の都」と云われ飛行場と共に発展してきた。
この立川小唄は昭和5年(1930年)に制作、踊りと共に発表されたもので、飛行場だけでなく当時の立川の情景を27部に分けて描写し、空の都立川を謳歌し広く地域で歌われたもので、この記念碑はその内の3節を選んで刻字したものです。
戦後、飛行場は長年に亘り米軍基地として使用されてきたが昭和52年(1977年)返還され、国営昭和記念公園を始め数々の跡地利用が進み、立川市は多摩の中核都市として大きく発展し、今やかつて立川が「空の部」と云われてきたことが消え去ろうとしている。
この度、末永く「空の都立川」を伝えるため、かつての立川飛行場正門前のこの地に記念碑を建立する所以である。
平成29年5月吉日
立川小唄記念碑建立委員会
立川小唄

作詞 大関五郎
作曲 町田嘉章

東京ばかりか浅川青梅
五日市から一走り
汽車だ電車だ川崎からも
空の都よ立川よ
★わたしゃ飛行機風まかせ
舵の取りよで宙返り
オヤクルリトセー
ションガイナー

飛行五連隊ありゃ格納庫
ほんに技術部さしむかい
ここは日本の飛行機の名所
空の都立川よ
★繰り返し

渡れ日野橋お茶屋が見える
浮いて静かな屋形舟
眺め懐かし秩父や御嶽
空の都立川よ
★繰り返し
パブリックアート散歩 - Google マイマップ
ブログ用地図

コメント

タイトルとURLをコピーしました