「栗本鋤雲」

2022.5 撮影
タイトル栗本鋤雲
作者山口駿河守直毅の養子(氏名不詳)
設置場所神奈川県横須賀市自然人文博物館前庭
製作年1985
備考御蔵島石膏像より複複製

栗本鋤雲は幕末に活躍した志士。江戸幕府の奥医師の家系に産まれた鋤雲は才能を発揮し若くして奥詰医師となった。西洋文化に興味があった鋤雲は、35歳の時に長崎でオランダの「観光丸」に乗船する機会を得る。これが問題化。日本伝統医学の奥詰医師が西洋にかぶれるとは言語道断と、奥詰医師の職を解かれ蝦夷地に送られてしまう。

鋤雲は、箱館医学所創設、薬園経営、水運開発、牛飼育、養蚕など業績を積み重ね、評価され函館奉行組頭に士分として取り立てられる。そして江戸に呼び戻され外国奉行に任命される。このころ、横須賀製鉄所建設の現場責任者を務め、小栗忠順の盟友となった。明治維新を派遣先のフランスで迎え、新政府に出仕を要請されるもこれを断り横浜毎日新聞社に入社。以後ジャーナリストとしての半生を送る。

鋤雲は、御蔵島の養蚕振興を助け、養子の代には島に医師を送り続けたという。この銅像は、外国総奉行並・山口駿河守直毅の養子(氏名不詳)が製作して鋤雲に贈ったもので、鋤雲から御蔵島に送られたようだ。その複製が群馬の東善寺にあり、さらにそれを複製したものがこの横須賀の像だ。東善寺には、小栗忠順とその家族、家臣の墓があり、鋤雲の像は小栗の胸像に寄り添うように建っている。なお、鋤雲自身の墓は文京区大塚の善心寺にある。

御蔵島の鋤雲像は石膏製で、地元の子どもからは「白ン爺・シロンジイ」と呼ばれ怖がられているらしい。

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