
タイトル | 春塘居士之碑 |
作者 | 不明 |
設置場所 | 横浜市西区 成田山横浜別院延命院 |
「春塘居士」とネットで検索すると、江戸時代後期の画家・篆刻家の壬生水石の別名と教えてくれる。石碑の漢文も掠れて読みにくいし、壬生って人のモニュメントかなあと。しかし、壬生水石は1871年に没している。この石碑の碑文の日付は1889年。ちょっとタイムラグがありはしないか。もう少し調べると次の記事が見つかった。
明治22年、横浜市の宮崎町になりました。延命院に真土村事件の河野与七の「春塘居士之碑」が建立されました。
下記のHPから引用させていただいた。
横浜市西区宮崎町 - 三浦半島観光地図
神奈川県横須賀市の大矢部の歴史と地名の由来。小矢部とともに、もと矢部郷でした。三浦一族ゆかりの地なので、三浦一族に縁のある寺院・史跡が多いです。観光名所案内、史跡巡り。
真土村事件は、1878年に平塚で起こった農民暴動事件。明治に入り、平塚では農民たちが土地を担保に戸長の松木長右衛門からお金を借りていた。1875年(明治8年)の地租改正で地権喪失の不安を感じた農民が詰め寄ったところ、松木は村民65人の質入地235ヘクタールを、無断で自分の名義に変更していたことが発覚。
怒った農民は裁判に訴え、一審は農民側が勝訴したものの二審は逆転敗訴。上級審へ訴える資金も無くなった農民たちは、1878年に蜂起、冠弥右衛門以下26人が松木家を襲撃し、家に火をかけ7名を殺害、4名に負傷を負わせた。
裁判の結果、1880年に冠ら4人に斬罪、8人に懲役8年余、14人に懲役3年の判決が言い渡された。しかし、全国から嘆願書が届けられ、1890年の第日本帝国憲法発布の恩赦により全員帰村した。この石碑は1889年のもの。
河野与七の来歴はよくわからない。
本当なら、石碑の文字を詳細に分析したいところだが、写真の文字が掠れて読みにくし。時間をかけてまた読み込みに行きたい。
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