タイトル | 平将門鎮魂碑 |
作者 | 他阿真教(書) |
設置場所 | 東京都千代田区 大手町パークビルディング向かい |
製作年 | 1307(揮毫)、1927(建立) |
平将門は平安時代の関東の豪族。桓武天皇の孫の高望王が平氏初代となる平高望であり、将門はその高望王の孫にあたる。
将門の父の平良将は高望王とともに坂東に下り、下総国を本拠地とした。高望王の任期が終わっても良将は下総に残り、常陸に構えた長兄・平国香、上総の次兄・平良兼などとともに開墾に励み、坂東の開発に務めた。
将門は、伯父の国香、良兼や前の常陸大掾・源護などと争うようになり、935年に将門は源護の屋敷を襲撃して伯父・平国香を敗死させた。同年、叔父で源護を岳父とする平吉正と争って敗走させ、翌年は伯父・良兼と国香の子である平貞盛も破る。一時は朝廷に恭順を示すも、坂東に戻ると一帯を支配下に置き、朱雀天皇に叛旗を翻し「新皇」と自らを称した。しかし、朝廷からの追討軍と平貞盛らの兵力を相手に力尽きた。将門の首は京都に晒された。日本初の獄門と言われている。
獄門に処されたあと、将門の首は所縁の人たちにより持ち帰られ、かつてここにあった神田明神のそばに埋められた。将門は、怨霊の神として恐れられたが、朝廷に対抗し、一時的にも関東武者の独立を勝ち取ったヒーローとしても崇められた。
1923年に、関東大震災の復興の一環としてこの首塚のあたりに大蔵省を築造しようとしたところ、不審死が相次ぎ計画は中止された。この鎮魂碑が建立されたのは1927年。戦後、GHQがこの地を区画整理しようとしたところまたもや不審な事故が相次ぎ、これも中止となった。高度経済成長時には、このあたりは高層のオフィスビルが林立したが、この首塚だけは撤去されることはなかった。
今でも、将門の神通力を崇敬し、必勝を祈念する参拝者が後を絶たない。
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