「大塩平八郎終焉の地」

2022.9 撮影
タイトル大塩平八郎終焉の地
作者不明
設置場所大阪市西区 靱公園
製作年1997

大塩平八郎は江戸時代の儒学者。1873年生まれ。代々与力の家系で、14歳で大阪東町奉行所与力見習い、22歳で与力となる。在任中に、西町奉行所与力の汚職摘発、切支丹摘発、破戒僧の断罪などの功績をあげた。汚職を嫌う潔癖で厳格な性格だったようだ。

与力を務めながら独学で陽明学を修め、1830年に45歳で家督を養子に譲ると、自宅に洗心堂という私塾を開く。

1833年〜34年に起こった天保の大飢饉で、大塩は町奉行の顧問のような立場で対策に当たった。しかし、1836年〜37年に続発した天保の大飢饉の後半では町奉行が交代し、大塩の献策が取り上げられることはなくなった。大阪東町奉行・跡部良弼は悪政を敷き、大阪には餓死者があふれた。

1837年に、大塩はついに武装蜂起した。大塩平八郎の乱である。蜂起は当日に鎮圧されたが、大阪は火焔に包まれ日本中にインパクトを与えた。

大塩と養子は、一度大阪を離れたが、再び大阪に戻りこの付近の商家に潜伏しているところを発見され、包囲される中自決した。享年45歳だった。

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