「北白川宮能久親王銅像」新海竹太郎

2022.5 撮影
タイトル北白川宮能久親王銅像
作者新海竹太郎
設置場所東京都千代田区 北の丸公園
製作年1903

北白川能久親王は、1歳で僧籍を得て19歳で上野寛永寺の貫主となる。寛永寺は徳川家の菩提寺であり、戊辰戦争が始まると能久は慶喜の命を受け、有栖川宮熾仁親王との交渉のため駿府に出向く。能久は東征中止と慶喜助命を嘆願するが不調に終わる。

江戸が陥ちると、能久は幕軍に同行し東北に下り、奥羽越列藩同盟の盟主となった。皇族なのに朝敵ということだ。なお、能久が東北で天皇となり、かつての南北朝の再現を狙ったという説もある。結局、敗れて降伏し、皇籍を失った。

明治に入ると許され、新政府で活躍。台湾出征の総大将となるも、現地でマラリアにより亡くなった。

新海竹太郎は、元は騎兵隊の兵士だった。士官試験に落ち、遊びで作った馬が見事だったのを上官の北白川能久親王が見て、彫刻の道を薦めたという。除隊後、竹太郎は彫刻家の道を歩んだ。

同時代のライバル・有栖川宮も騎馬像となり同じ都内の有栖川宮記念公園で力をためている。

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