
タイトル | 初代町田久成館長像 |
作者 | 中村晋也 |
設置場所 | 東京都台東区 東京国立博物館 |
製作年 | 2016 |
町田久成は1838年に薩摩藩の藩士の家に生まれる。19歳で江戸に登り、昌平坂学問所で学問を修めて薩摩に帰郷。薩摩では1963年に薩英戦争に従軍し欧米の軍事力を肌で知る。1865年に15名の若者を率いて薩摩藩英国留学生として渡英。ロンドン大学ユニバーシティカレッジの聴講生となる。英国では、大英博物館の展示に圧倒されたという。また、イギリリスでは小さな町にも博物館や美術館があり、文化の豊かさにも驚かされた。1867年にはパリ万博も見学する。その年の6月に帰国し、翌年1868年に明治維新を迎え、新政府の参与職外国事務掛の要職についた。
1870年に大学大丞に異動すると、かねてからの念願だった「日本初の博物館創設計画」を立案する。1971年に西洋医学所薬草園にて「物産会(博覧会)」を開催。1872年には母校跡である湯島聖堂で「湯島聖堂博覧会」を開催し、ウィーン万博への出品物を展示した。この時のチケットに「文部省博物館」の記載があり、この展示が東京国立博物館の創設とされている。3月10日から20日間の予定だったがあまりの人気に2度延長され、4月末まで開催され、15万人が入場したと推定されている。日本の「博物館」の起源である。
1873年に、現在は帝国ホテルなどが立地する千代田区内山下町に「内山下町博物館」が開設される。また、町田は1874年にフィラデルフィア万博事務局長となる。1881年に現在の上野の地に移転する。1882年3月に東京帝室博物館初代館長。しかし、同年10月には館長職を辞す。翌1883年に僧侶となる。博物館創設の夢を形した人生だった。
町田は美術品の鑑定の面でもかなりの目利きだったという。Wikipediaからいくつか逸話を引用する。◯井上馨が、フランス人に伊万里焼の用土を使って焼かせた焼き物を、土は日本のものだが焼き方は日本のものでも中国のものでもないと見抜いた。◯京都祇園の茶屋で芸妓と遊んだとき、古い琴を譲ってもらうよう頼んだが、断られたので琴ごと身請けして、芸妓本人の方はすぐ暇に出した。
中村晋也による肖像は2016年の製作。町田は1897年に亡くなっているので、111年後の作品となる。町田久成と共にイギリスに留学した弟の町田申四郎の孫である町田忠夫さんの声かけで、留学生の子孫たちにより建立された。
コメント